谷口に「世界の動き」を語る資格はあるのか?

こんにちは、谷口です。

このページを開いてくださって、ありがとうございます。

コンテクストノートでは、世界の最新ニュースを毎週お届けしています。サイエンス誌やニューヨーク・タイムズなどの一次情報をもとに、日本ではあまり報じられない世界の動きを、わかりやすくお伝えしています。

けれど、こんなふうに思われた方もおられるかもしれません。

「谷口さんは普通の治療家でしょう?治療家としての実力は分かるけれど、世界の情報を分析して発信する人として、本当に信頼できるの?」

もっともなご質問だと思います。

私は、セラピストや治療家を養成する日本ボディーケア学院を27年運営してきた、表向きには「普通の治療家」かもしれません。けれど、その背景には少し変わった経歴があります。

今日は、私がなぜ世界の動きにずっと関心を持ち続けてきたのか、そのルーツと、現在の活動までを、少し時間をかけてお話しさせてください。

目次

父が見た、サンフランシスコの未来

私の父は、昭和10年生まれです。11年前に亡くなりました。

父は、地元でも二番目と言われる進学校に通っていました。頭の良い人だったと思います。字もとてもきれいでした。

本当は大学に進学したかったそうです。けれど、家庭の事情で、それは叶いませんでした。「国立の学校なら行ってもいい」という条件で、父が選んだのは、岡山県の児島にあった国立の海員学校でした。

明治時代から続く、歴史ある海事教育の学校です。当時の日本は戦後の復興期で、誰もが大学に進める時代ではありませんでした。父は、大学への道を諦める代わりに、海への道を選んだのです。

そして父は、船乗りになりました。

父が21、22歳の頃、船の仕事で、父はアメリカのサンフランシスコへ行ったそうです。昭和31年か32年(1956〜57年)頃のことです。

当時の為替レートは1ドル340円。海外渡航もまだ自由化されておらず、一般の日本人が海外を見ることは、ほぼ不可能な時代でした。船員という職業だけが、その壁を越えられる数少ない道のひとつだったのです。

その頃のサンフランシスコは、戦後アメリカの好景気の真っ只中でした。街には自動車があふれ、ハイウェイが整備され、テレビや家電が家庭に広まり、まさに「未来の世界」がそこにありました。日本がようやく戦後の復興から立ち上がろうとしていた頃のことです。

若き日の父が、その光景にどれほどの衝撃を受けたか。今の私にも、想像することしかできません。

父は子供だった私に、何度もその時の話をしてくれました。そして、繰り返しこう言っていました。

「アメリカは日本の10年先を行っている。お前も必ずアメリカで未来を見てこい」

これが、私が小さい頃から海外へ目を向けるようになった、いちばん最初のきっかけでした。

父がサンフランシスコで見た風景、感じた衝撃、そしてそこから持ち帰ってきた「世界を見る目」が、形を変えて、私の中に受け継がれていったのです。

船を降り、銀行員へ、そして鍼灸師へ

しかし、父の船員としての人生は、長くは続きませんでした。

ある時、父は船の上で大病を患ったのです。その病をきっかけに、父は船を降りることになりました。

海が好きで、海員学校に進み、世界の港を見てきた父にとって、船を降りることは、どれほど大きな決断だったでしょうか。それは、自分が選んで歩んできた道を、自分の意思とは関係なく、手放さなければならなかった瞬間でした。

けれども、父はそこで人生を止めませんでした。

新しい仕事として、父は銀行に就職しました。そこでよく働き、最終的には支店長代理まで上り詰めました。学歴の壁で、出世はそこで止まりましたが、父はそれでも終わる人ではありませんでした。

銀行を経た後、父は新たに鍼灸の勉強を始めたのです。年齢を重ねてから専門学校に入り、若い学生たちに混じって学び、卒業時には大阪府知事賞を受けました。

その後、私も同じ専門学校に入りました。すると、父のことを知っている先生方からよくこう言われたものです。「お父さんは勉強がよくできたのに、お前はダメだな」と。それだけ、父は先生方の記憶に残る学生だったのです。

父の人生を振り返ると、一つの特徴が見えてきます。

父は、学ぶことをあきらめなかった人でした。そして、時代の制約の中で、自分の道を何度も作り直した人でした。

大学を諦め、海員学校へ。船を降りて、銀行員へ。学歴の壁を越えて、鍼灸師へ。父は、与えられた条件を受け入れながら、その中でいつも自分の可能性を広げようとしていました。

その背中を、私はいつも見ていました。

母方の祖父と、知らない文字の木箱

私が世界に目を向けるようになったルーツは、父からだけではありませんでした。

母方の実家もまた、私の人生に深く影響を与えてくれた場所でした。

私の母の実家は、メガネのレンズを作る小さな町工場を営んでいました。そして、そのレンズを、東南アジアやロシアに輸出していたのです。

そのため、家にはいつも、知らない文字の書かれた木箱がたくさん積み上げられていました。子供の頃の私には、その文字が何を意味するのかわかりません。

けれど、ある日、祖父が私にこう教えてくれました。

「このレンズを使って、海外の人たちが生活してくれているんやで」

その一言で、私の心の中に、はっきりとひとつの感覚が芽生えました。

「自分の祖父は、日本だけでなく、海外の人たちのためにも役に立っている人なんだ」

幼い私にとって、それは誇らしい発見でした。そして、海の向こうにいる、見たこともない人たちの生活が、自分の家とつながっているという感覚は、その後の私の人生に、ずっと残り続けることになります。

二人の叔父が見せてくれた、世界

母方の親戚には、もう一人、重要な存在がいました。

祖父の弟もまた、自分でビジネスを営んでいた人でした。そして、その息子さんたち――私から見ると、遠縁の叔父にあたる二人――が、私の世界をさらに広げてくれたのです。

二人は、大阪の外国語大学で、それぞれスペイン語と中国語を学んでいました。

スペイン語を学んでいた叔父は、大学時代にシベリア鉄道を使ってスペインまで行ったそうです。そして現地でアルバイトをしながらスペイン語を磨き、大学卒業後はスペインの企業に就職しました。

シベリア鉄道で、ユーラシア大陸を横断してスペインへ。今聞いても胸が躍る話です。当時、海外渡航は今ほど自由ではなく、それを大学生がやってのけたというのは、本当に並外れた行動力だったと思います。

もう一人、中国語を学んでいた叔父は、ある時期、私の家に居候をしていました。

その叔父は、大学生でありながら、中国から要人が大阪に来るたびに、たびたび通訳として呼ばれていたのです。学生でありながら、国際的な現場の最前線に立っていた人でした。

叔父も大学卒業後、対中国専門の商社に就職しました。

そして私は、この二人の叔父から、海外のことをたくさん聞かされて育ちました。

スペインでの暮らし。シベリア鉄道での旅。中国の要人たちのこと。日本の中だけでは絶対に聞けない話が、二人の口から次々と語られていました。

そして二人は、繰り返し私に同じことを言っていました。

「海外の情報を、自分の目と耳で感じ取れるようになりなさい。まずは英語を勉強しなさい」

学生の頃の私には、正直、その意味があまりよくわかりませんでした。

けれど、専門学校に通っている頃、ふと、二人の言っていたことがなんとなく理解できる瞬間が訪れたのです。

世界を、自分の目と耳で感じ取る力。

それは、語学の問題ではなく、生き方の問題なのだと、その時ようやく腑に落ちたのを覚えています。

22歳、初めての中国 ── 上海港の朝もや

そして、私の人生で最初の海外体験が訪れました。

柔道整復師の専門学校の2年生だった夏休み、ちょうど叔父が中国の青島に駐在することになったのです。対中国専門の商社に勤めていた、あの叔父です。

私は叔父にお願いしました。「家財道具を運ぶ手伝いをするので、一緒に中国まで連れて行ってくれませんか」と。

これが、私にとっての初めての海外旅行でした。

そして同時に、それはただの旅行ではありませんでした。中国に本当に留学できるかどうかを、自分の目で確かめるための旅だったのです。

神戸港から、当時、日中を結んでいた定期客船「鑑真号」に乗りました。

船は二日かけて、上海港へ向かいました。そして到着したのは、早朝。

朝方、もやのかかった上海港に入ったときの、あの匂い。あの空気。あの光景。今も、忘れることができません。

そこから陸路で青島まで移動し、私は中国で30日間滞在しました。

滞在中、私は中国で誕生日を迎えました。22歳になったのです。

当時の中国は、改革開放のさなかにあり、街にはまだ昔の景色が色濃く残っていました。私はその街並みを、人々の暮らしを、自分の足で歩いて、自分の目で確かめました。

叔父の奥様の中国にいる親戚のお宅にも、お邪魔させていただきました。本当に温かく迎えていただき、ご飯を一緒に食べ、笑い合い、家族のように過ごさせていただきました。

この30日間で、私は本当の中国人の温かさを、体で知ることになりました。礼儀正しく、家族を思いやり、知り合いを大切にする。その思いは、日本人以上だと感じる瞬間がたくさんありました。

この経験が、私の中国への道を、決定づけてくれたのです。

1988年、広州中医薬大学へ

初の中国訪問から二年後、私はいよいよ留学を決意しました。

留学のきっかけを作ってくださったのは、また別の、大切な方でした。

実は、私の叔父の奥様は、残留孤児のお子様として生まれた方で、日本に帰国されて40年になります。今も、私と深いつながりを持ってくださっています。

その奥様のお母様は、日本帰国後、神戸に住まわれました。そして、神戸と中国の橋渡しに長年尽力された方でした。今、神戸市が中国の天津市と友好都市提携を結んでいるのも、こうした方々のご尽力があったからこそです。

このお母様が、私の留学を強力に後押ししてくださいました。そして、広州中医薬大学を私に紹介してくださったのです。

こうして1988年、私は中国・広州中医薬大学へ留学することになりました。中国伝統医学を学ぶための、本格的な学びの場でした。

そしてもう一つ、私の中国とのつながりを、現在まで深く支えてくださっているのが、叔父の奥様ご本人です。日本に帰国されて40年、奥様を通じて、私は本当の中国の人々と、深く関わり続けることができました。表面的な「中国」ではなく、本当の中国を知ることができたのは、奥様のおかげです。

そして、思いがけない出来事

留学は2年の予定でした。しかし――

1989年、思いがけない出来事が起こり、留学を中断して帰国することになりました。

「世界の動きが、自分の人生を直接変える」――これを、私は24歳の時に、はっきりと体感したのです。

けれども、この経験が、その後の私を作る大きな土台になりました。

世界中の友人たちと、広がる視野

帰国後も、世界とのつながりは続きました。

広州中医薬大学で出会った留学生仲間との縁が、私に新しい体験をもたらしてくれたのです。

留学中、私のルームメイトはドイツ人でした。中国の大学では留学生は二人部屋が基本で、たまたま同じ部屋になった彼は、とても優秀な人でした。彼から、ドイツの話、彼から見た中国の姿、そしてヨーロッパ全体の話を毎日のように聞きました。これも、私の世界を広げてくれた大きな刺激でした。

帰国後には、大学で仲良くなったベルギーの友人が3か月、続けてエクアドルの友人が3か月、私の家にホームステイをしてくれました。

彼らに日本を紹介し、同時に彼らからそれぞれの国の話を詳しく聞く。生活を共にしながら、世界のさまざまな視点を吸収する時間でした。

そして翌年、今度は私がベルギーへ行きました。3か月間、ベルギーを拠点に、友人と共にヨーロッパ各地を旅行したのです。フランス、オランダ、ドイツ、その他の国々。一国ずつ、自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の耳で言葉を聞く――その経験は、二度と忘れられないものになりました。

こうした経験のおかげで、今では英語と中国語は仕事で使えるレベルになりました。それ以外にも、フランス語、スペイン語、ドイツ語は挨拶程度ですが、それぞれの国の人と会ったときに、その国の言葉で「こんにちは」と言えるだけでも、相手との距離はぐっと縮まることを学びました。

二つの仕事を、同時に動かして

その後、私はずっと中国と関わりを持ち続けることになります。

そして、これは多くの方が知らないことなのですが――実は私は、39歳の時、つまり23年前、叔父の会社のサポートを受けて、日本ボディーケア学院を運営しながら、中国向けの貿易会社も経営していたのです。

東洋医学を学び、伝える仕事をしながら、片方で中国との貿易ビジネスにも携わる。

二つの仕事を同時に動かす日々は、決して楽ではありませんでしたが、私にとっては、子供の頃から見てきた「世界とつながる仕事」を、自分自身が手がけるという、深い喜びがありました。

その貿易会社は7年ほど経営しましたが、ボディーケア学院の方が忙しくなったため、最終的には売却することになりました。

そして、新しい中国とのつながり

そして今、私の中国とのつながりは、次の世代へと受け継がれています。

叔父の次男――私のいとこにあたる人物が、日本の大学を卒業後、中国の最高峰の大学のひとつである北京清華大学に2年間留学しました。

北京清華大学は、中国のトップ大学であり、各国のエリートが集まる場所でもあります。彼はそこで中国語を完全にマスターし、中国国内のエリート層、そして各国の留学生たち、特に韓国のエリートたちとも、太い人脈を築き上げました。

その後、彼は中国で13年間、自ら起業し、ビジネスを続けてきました。本物の中国でのビジネス経験を、自分の手で積み上げてきた人物です。

コロナのパンデミックを機に、現在は日本に帰国していますが、亡くなった叔父と一緒にできなかった本格的な中国進出を、今度は彼が私のサポート役となって、準備してくれています。

そして私には、中国に深い人脈を持つ友人たちがいます。私が動き出すと決めれば、全力でサポートしてくれる体制が、すでに整っているのです。

今は学院の仕事が忙しく、まだ具体的には動いていません。けれど、やる気になれば、明日からでも本格的に動き出せる状態にある――これが、私の中国との今の関係です。

2018年、ルワンダ ── ブラインドセラピストへの指導

世界とのつながりは、年齢を重ねるごとに、新しい形で広がっていきました。

2018年の秋、私はアフリカのルワンダへ行きました。

きっかけは、東京校に生徒として通ってくださっていた山田美緒さんでした。

美緒さんは当時、バイクで世界を旅する冒険家として、日本だけでなく世界でも有名な方でした。私も少しだけ、彼女の活動をサポートさせていただいていました。

しばらく連絡がなかったある日、2017年に久しぶりに美緒さんからメールが届きました。「今、アフリカのルワンダで日本食レストランをやっています」というお知らせでした。

そしてもう一つ、彼女はルワンダで、シングルマザーや視覚障害を持つ女性たちに仕事を作るボランティアをしているとのことでした。

「彼女たちにマッサージを教えてほしい。特に、目の見えない方たちに仕事を作ることをサポートしたい。力を貸してほしい」と。

とても興味深いお話だったので、その場で「やらせてください」とお返事しました。

とはいえ、現地滞在は1週間ほど。それで指導を完結させるのは難しい。そこで、ルワンダでは当時から国の方針としてインターネット普及を進めていたこともあり、まずはZoomを使って、週に1回、オンラインで指導することから始めました。

ルワンダは公用語を英語にしている国です。私にとっても、英語で、しかもオンラインでマッサージや指圧を伝える、貴重な訓練の時間になりました。

約半年のオンライン指導を経て、2018年秋、私はルワンダに渡り、現地の「ブラインドセラピスト」と呼ばれる、目の見えないセラピストたちに、直接技術を指導しました。

そして、美緒さんは世界に人脈を持つ方でした。彼女がまずルワンダの外務省に働きかけてくれ、そこから話は大統領にまで届いたようです。

私がルワンダに到着した翌日には、歓迎レセプションが開かれました。当初は大統領夫妻も参加してくださる可能性がありましたが、公務のため叶いませんでした。けれど、前大統領の娘さん、国連の代表、日本大使が出席してくださいました。

また、現地のテレビ局2社、新聞社3社が取材に来てくださり、それぞれインタビューを受けることになりました。

ブラインドセラピストへの指導の合間には、美緒さんの紹介で、ルワンダに駐在する各国の大使や、外国の大企業の幹部の方々、そのご家族にも施術をさせていただきました。さまざまな国の方々と直接お話しする中で、本当に貴重な意見を聞かせていただきました。

そして、ルワンダ滞在の最終日。日本大使から、大使館でのランチにご招待をいただきました。

大使館で食事をいただきながら、大使からこんなお言葉を頂戴しました。

「またルワンダで活動される時は、必ずご連絡ください。次回は、日本の代表として谷口先生がより広く活動できるよう、サポートさせていただきます」

「日本の代表として」――この言葉の重みを、私は今も忘れません。

そして今も、美緒さんとは密に連絡を取り続け、彼女のサポートを引き続きさせていただきながら、ルワンダから世界へ広げるアイディアを、いつも一緒に考えています。

2019年、フランス・トゥールーズ、そしてエアバスへ

翌2019年の秋には、今度はフランスへ行く機会が訪れました。

きっかけは、これも生徒さんからの流れでした。フランス在住20年のラレ・美恵子さんが、フランスから私のオンライン教材をご購入くださり、そこからご縁が始まりました。

美恵子さんは日本に帰国される際、東京校で私の個別指導を受けてくださいました。

その時に私が、「フランスでもセミナーをする時は、ぜひ手伝ってくださいね」と冗談半分でお願いしたところ、美恵子さんはすぐに動いてくださったのです。

美恵子さんはフランスの企業に勤めながら、週末はセラピストとしても活動されていました。そしてフランスで指圧を学ばれていたので、「日本の本物の技術を学びたい」と言うフランス人をたくさん知っていらっしゃったのです。

美恵子さんが現地で声をかけてくださり、私もこれまでに培ったインターネットでの集客の経験を生かして、フランス向けにセミナーをご紹介してみました。すると、驚くほど反応があったのです。

こうして、2019年の秋、フランスのトゥールーズで二日間のセミナーを開催することができました。参加者は、なんと27名。

そして、せっかくトゥールーズに行くのだから、と私は美恵子さんにお願いしました。「フランスで一番大きな会社で、セミナーをすることはできませんか?」

美恵子さんはこう答えてくださいました。「それなら、私が以前働いていたエアバスに聞いてみますよ」

最初は、冗談かと思いました。けれど美恵子さんが以前働かれていたのは、紛れもなく、ボーイングと並ぶ世界二大旅客機メーカー、エアバス社のことでした。

話はトントン拍子で進み、トゥールーズでのセラピストセミナーの後、私はエアバス社で講演させていただくことになりました。

エアバスは旅客機を作る会社です。社内が空港のように広く、移動にはバスが必要なほどの規模でした。従業員も非常に多いため、私は1日で4か所を回って講演することになりました。

対象は、幹部の方から新入社員まで。テーマは、ストレスによる睡眠障害の改善です。エアバスでは、ストレスからくる睡眠障害が原因で、休職や離職に至る方が多くいるとのことでした。そこで、「睡眠障害を改善するセルフ経絡ヘッドケア」を、私が直接ご指導したのです。

講演はとても好評でした。その後、幹部の方から「谷口先生の講演内容を小冊子にまとめ、世界各国にあるエアバスの支社に配布して、全社でセルフ経絡ヘッドケアを取り入れていきましょう」というお話をいただきました。

計画は本格的に進んでいました。

しかし――2020年、コロナのパンデミックが世界を覆い、この計画も、頓挫することになりました。

それでもフランスのセラピストの皆さんとは、今もメールのやり取りを続けています。フランスでは、いつでもまたセミナーを開催することができますし、エアバスにも、いつかまた改めてアプローチしてみたいと思っています。

今も、世界とつながり続けている

コロナで海外でのセミナー開催はできなくなりました。けれど、私はそこで止まりませんでした。

「動けないなら、動かさずに届ければいい」

そう考えて、英語の教材を作りはじめました。

そしてその教材は、現在――

世界87か国、1400人以上の方々が、私の教材で学んでくださっています。

そしてここから、新しい流れが生まれました。

教材で学んでくださった方々から「もっと深く、谷口先生から直接指導を受けたい」というご連絡を、いただくようになったのです。

2025年には、ドイツとカナダから、それぞれ個別指導を受けに来日してくださいました。

そして、今月の末からは、ドイツの方が1週間の集中講座を受けに、日本へ来てくださることになっています。

かつては私が世界を訪ねていく形でした。今は、世界が私に会いに来てくれる時代になりました。

形は変わりましたが、世界とのつながりは、今も着実に続いているのです。

27年、続けてこられた理由

日本ボディーケア学院は、おかげさまで27年間運営を続けてきました。

独自のセラピストスクールとして、多くの卒業生を世に送り出し、コロナ禍も乗り越えてきました。

なぜ、これだけ長く続けてこられたのか。

もちろん、東洋医学への情熱や、生徒さんとの信頼関係が、いちばんの土台です。

でも、それと同じくらい大きな理由があります。それは、ずっと世界の動きを見続けてきたことだと、私は思っています。

たとえば、コロナ禍の前から、私はオンライン講座を始めていました。なぜなら、世界では教育のオンライン化が、すでに本格的に進んでいることを知っていたからです。

そのおかげで、コロナで対面が止まったとき、私はすぐにオンラインに切り替えることができました。そして、生徒さんたちにもその方法をお伝えすることで、多くの治療家やセラピストの方が、コロナ禍を乗り越える助けになれたと自負しています。

世界がどこへ向かっているのか。次に何が起こるのか。それを見続けてきたことが、私の仕事を支え続けてきたのです。

これが、コンテクストノートの背景です

長い話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

まとめると、私はこのような道を歩んできました。

  • 船乗りとして若き日にサンフランシスコを見て、「アメリカは10年先を行っている」と語っていた父のもとで育つ
  • メガネのレンズを世界に輸出する家で、子供の頃から「海外とつながる暮らし」が当たり前だった
  • シベリア鉄道でスペインへ渡った叔父、中国要人の通訳をしていた叔父から、世界の話を直接聞いて育った
  • 「自分の目と耳で世界を感じ取れ」と教えられて育った
  • 22歳の時、初の海外。鑑真号で上海港へ。中国30日間の滞在で、本当の中国人の温かさを体感する
  • 1988年、広州中医薬大学に留学。叔父の奥様(残留孤児のお子様)のお母様に紹介していただいた
  • 1989年、思いがけない出来事で帰国を余儀なくされる
  • ドイツ人ルームメイト、ベルギー人、エクアドル人の友人たちとの交流。3か月間のベルギー&ヨーロッパ旅行
  • 39歳から7年間、日本ボディーケア学院と並行して、中国向けの貿易会社を経営
  • 日本ボディーケア学院を27年運営
  • 叔父の奥様を通じて、本当の中国人の方々と40年来の深いつながり
  • 北京清華大学に2年留学し、中国で13年間起業した、いとこのサポート体制
  • 2018年、ルワンダでブラインドセラピストへの指導。日本大使から「日本の代表として」と認められる
  • 2019年、フランス・トゥールーズで二日間のセミナー(27名参加)。エアバス社でも講演し、世界展開の計画も(コロナで頓挫)
  • 現在、英語教材で世界87か国、1300人以上が学んでいる
  • 2025年、ドイツとカナダから個別指導の受講者が来日

私は、表向きには「普通の治療家」かもしれません。

けれど、世界の動きを見続けることは、私にとっては趣味でも、後付けの勉強でもなく、生まれ育った環境そのものでした。そして、その目を持ち続けてきたことが、私の人生のすべての判断を支えてきた、いちばんの土台です。

だからこそ、私はコンテクストノートで、自信を持ってお伝えします。

世界の動きを見ることは、特別な人だけがやることではありません。家族と、大切な人と、これからの時代を幸せに生きていくために、誰にとっても必要な力です。

その力を養うお手伝いを、私にさせてください。

コンテクストノートで、お待ちしています。

谷口 光利

CONTEXT NOTE

世界を、自分の目で見る。
その一歩を、今週から。

サイエンス誌、ネイチャー誌、ニューヨーク・タイムズ。世界の一次情報をもとに、日本ではあまり報じられない動きを、私の視点で毎週ひとつお届けします。

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日本ボディーケア学院は今年で開講27年目を迎え、国内では通学講座、オンライン教材で指導し、現在87カ国に教材を販売している。

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